はじめに;宣言

 思うところあって、ブログを引っ越し+リニューアルしました。
 これまでの「マリみて解題の試み」は、ここに引っ越しました。短編も発表されていますし、「お釈迦様も見てる」も発表されていますから、機会があればまた続けたいと思います。

 こちらでは新たに、私の専門分野、動きとアニメについての解題、考察諸々のことを思うに任せて描いていきたいと存じます。
 はじめに、動きとアニメ、絵とアニメ、ストーリーとアニメなどについて解題するにあたって、スタンスといいますか、基本的な姿勢を示しておきます。

 表現する、表現作品を作るということは、コンテンツ(Contents……意味内容)やプロパティ(Property……独特な性質、特質)を作るということである。

 アニメは、「動く主体」と「動きそのもの」で、意味や物語を作る表現である。

 つまり、
 アニメで表現するということは、「どんな人物が」「何をしているか」、または「どんなモノに」「何が起こっているか」を「まさに動いているかのように」描くということである。

 私たちは、生きていく上で必要な、身の回りの物事それぞれが持っている独特な性質(プロパティ)や意味内容(コンテンツ)を探し、感じ、利用し、行動している。
 それらの独特な性質や意味を、人の手であらためて作り出し、他の人の前に示して伝えるということこそが、表現するということである。
 クリエイターと呼ばれている人が作っているのは、生きる上で使うことのできる、私たちが求め感じる意味内容や性質である。
 クリエイター、アニメーター、絵描き、役者俳優といった表現者が作り出すものは、単に色の配置であったり、線の組み合わせであったり、動きの組み合わせであったり、音の並びであったりするのではない。
 それらによって巧みに組みあげられた「それ」に独特な性質や意味内容こそが、彼らが作りだしているものである。

 作り手は、私たちヒトが生きるために利用できる独特な性質(Property)や意味内容(Contents)を作り出し、発表し、鑑賞してもらっていることを忘れてはならない。
 表現作品を見る者は、それが単なる動きや絵の羅列なのではなく、あるいは単なるストーリーであるだけではなく、それが自分が生きるときに求めてやまない、生きる上で必要不可欠な形質と意味内容を感じてこそ、十分にそれを味わったと言える。
 アニメにとって絵や動き、音楽や役者の声は、それぞれが一つ一つの独特な性質を持つモノや無二の意味内容であり、同時にそれらが組みあげられて大きな一つの意味内容や独特な性質、一つのアニメ作品を作り上げている。それらの一つ一つは特質や意味内容であると同時に、より大きな部分の特質や意味内容を作る部品でもある。

 動きも、絵のかたちも、色彩も、仕草も、声も、それぞれが一つ一つ独自の性質や意味内容でありながら、より大きな一つの意味内容や特質を作るための道具である。

 クリエイターが作り出すのは、何よりも、私たちが求める意味内容や独特の性質そのものである。

 アニメーターは動きを作っているだけではない。イラストレーターや画家は絵を描いているだけではない。役者は声を出し演じているだけではない。動きを作り、絵を描き、演じることを通して、私たちが求め続ける意味内容や性質を作ることこそが、その本質である。

 そういった、人が生きる上で必要な意味内容や様々なものごとそれぞれ独自の性質を作るためには、覚悟が必要だ。自力で得た、世界の中に埋め込まれた意味内容や物事の独特な性質を自力で伝える、作るという覚悟が必要だ。

 表現するのをためらう必要はない。しかし、意味内容や独特な性質を作るのであれば、それ相応の意味内容やそれ自身の特質の多様性と「深み」を作り手自身が持っている、身につけている必要がある。あらゆる意味内容や独自の性質について、物事を感じ取り、探り、それにどんな意味内容があるのか、そこにどんな特質があるのかをしっかりと、彼自身の身体と感覚で受け止めている必要がある。そしてそれを、他の人の前にそれ自身の性質や意味内容としてもう一度作り出すことになる。

 自分の身の回りにある特質や意味内容をしっかりと受け止め、消化し、自分のものにできており、何を表現し、どのような特質や意味内容を作りたいかがはっきりとしていれば、技術は稚拙でも、魅力的な作品ができあがる。
 逆に言えば、意味内容や何かに特有な性質を作り出すのだという覚悟がないのなら、技術は高くても魅力のない作品、表現になってしまうということだ。

 技術も大事だが、それは後からでも身につけることができるし、ある程度のレベルにはなる。それ以上の魅力を持ちたいなら、それ自身の独特な性質や意味内容から逃げ出さない、それを味わうことを苦にしない覚悟が必要である。

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動きのある絵(3) 動きの種類とインテンション(意図・意志・意思・思惑)

 動きのある絵について論じるためには、まず、動きについて論じる必要があります。
 まず、動きを種類分けします。といっても、2種類しかありません。

 生き物の動きと、生き物でない動きです。

 次に、生き物でない動きにどんなモノがあるか紹介します。これも数種類しかありません。基本的に物理学に基づいている「力学」とか「物理運動」です。

1.重力による動き(落下、滑り落ちるなど)
2.流れによる動き(水の流れによる動き、風による動き)

3.生き物によって動かされる動き(押す、運ぶ、引っ張る……)
4.磁力(磁石)
5.電気(静電気など)
(4.5は日常生活ではあまりお目にかかれません)

 では、これら「生き物でない動き」と「生き物の動き」の違いはなんでしょう。
 生きているモノの動きには、これがあります。

 インテンション(Intention)……意図、意思(意志)です。

 単なる物理運動(先に挙げた「生き物でない動き」)には、これがありません。

 生き物でない動きには、方向はありますが、それは何かの意志によって決まるものではありません。重力は(地球上では)必ず地面の方向に向かって働きます。流れによる動きは、渦ができたり乱れたりと複雑になりますが、基本的には流れの上流から下流の方向に働きます。磁力、静電気は、互いに相反する性質を持っている2つの物体……N極とS極、+と−は引き合い、同じ性質を持っている物体……N極同士、S極同士、+同士、−同士は反発し合います。お互いに近づくか、遠ざかるかによって方向が決まります。これらは物体の性質や環境の持つ性質によって決まっているものです。
 複雑なことに、これらの動きはたまに「あたかも意志を持っているかのように見える」ことがあります。そのような動きと、「生き物の動き」を明確に分けることは大変難しいと言えるでしょう。しかし、「それらがなく、あくまで重力に引かれているだけ」とか「流されているだけ」という動きもあります。これらを描き分けることは、実際にところ、それほど難しくはありません。「明らかに意図がある動き」とは違うからです。

 生き物による動きには、必ず「意図・意志」があります。本能であろうがなかろうが、理性であろうがなかろうが、そいつ自身が気づいていようがいまいが、動物、生き物は、「自分が動きたいから動く」のです。そのとき、方向も決まっています。目的となる何か、環境の中にある意味や性質があり、その方向に向かっていこうとする、あるいはそれを避けようとする、どちらかの行動をします。これらは前に書いた「重力による動き」や「流れによる動き」とは関係なく、それらに逆らうこともしばしばです。
 ですから、生き物の動きには、「目的(目標)」と「方向」の両方があります。
 さらに付け加えると、生き物には「感情」もあります。感情が動きをさらに味付けしていきます。でも、「感情」が生き物の動きの核にあるのではなく、あくまでも中心にあるのは生き物それぞれの「意志」です。

 アニメーションは、「動く主体」と「動き」によって何かを表現するものだと述べました。「動き」、生き物の運動や物体の運動には、必ず「意志」か「働く力」があります。動きを描くということは、それらの「働く力」「生き物の意志」を描くことでもあるのです。
 それらのない「動きらしきもの」は、絵の変形でしかありません。絵の変形だけでは、それに「生きている感じ」を与えることは難しい、というより、できないのです。生きている感じ、「動く主体」の意志で何かを表現したいのなら、意志を描かなければなりません。
 そのつもりでなく、絵の変形で何かの意味を作りたい、というのであれば話は別ですが、それが「アニメの醍醐味」というわけではありません。アニメでできるたくさんのことの一つ、というだけのことです。

 「動く主体(主人公、登場人物、ストーリーを動かす何か)」の「動き」で、何かを主張したり、ストーリーを語りたいのなら、「動き」を描くとき、必ず「意志」を描くことが必要なのです。
 絵を動かしているだけでは、単なる「絵の変形」に過ぎず、そこに「意志」は生まれません。この場合、絵の変形そのものによって何かの意味を伝えるのだ、という確信を持っていなければ、「絵の変形」によって意味を作ることはできません。

 「絵の変形」と「動き」は、全く違うものなのです。

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動きのある絵(2) 動作の途中であること・重心の崩れ


 どんな絵に動きがあるか、ということをいっても、絵は絵です。一枚の絵は、構造が固定されています。そのため、どうやってもそれ自身が「動く」ことはありません。それなのに、「動きのある絵」とはどういうことか。それは、ここまでの話を繰り返しますが、「動きを意味している絵」「動きを実感させる絵」であるということです。
 (1)では、私たちの脳や目の仕組みを利用した、錯覚あるいはだまし絵のような方法で「動いている」かのように感じさせる方法を採り上げました。今度は、そのような仕掛け無しで動きを実感させる方法を考えます。
 まず、次の絵をご覧ください……とはいえ、著作権をクリアするために自分で描いたものなので、全く下手ですが……
Jump_2
踊っているような動作の途中を描こうとしたものです。(参照:芦奈野ひとし「ヨコハマ買い出し紀行」第6巻P.7)いかがでしょうか。絵そのものは動いていませんが、絵に描かれたこの人はこのまま止まっているでしょうか。それとも、必ず動き出す、あるいは動いているでしょうか。

もう一枚お見せします。これまた自分で描いたものなのでド下手ですが。
Kokone01
(参照:芦奈野ひとし「ヨコハマ買い出し紀行」第6巻P.44)

これは「散策している途中、立ち止まろうとしているのか、歩き出そうとしているのか、迷っているような様子」と言えるでしょうか。この人も、このまま止まっていられるでしょうか。それとも、この状態から必ず動き出してしまうでしょうか。

 これら2枚の絵に共通していることはいくつもあるでしょうが、重要なことを取り上げることにします。
 まず、これらの絵は両方とも、動作の途中を抜き出した絵であるということです。何らかの動きの途中であるからこそ、これらの絵はこの状態から動かない限り不自然であるということです。このまま止まっていられるような姿勢・状態ではありません。
 それだけで「動き」を実感させることができるかというと、そういうわけでもないのです。ある姿勢・かたちの状態で不安定であるということを実感させるために重要な要素は、もう一つ必要になります。それは、重心の位置です。
 ここに示した2枚の絵では、重心の位置が安定している状態からずれていることがわかるかと思います。もとの絵を見るとよりはっきりするのですが、取りあえず重心位置をずらした絵にできてはいるのではないでしょうか。この状態で、重力がかかっていることを示すことができれば、必ずこの姿勢は重力によって崩れ、倒れてしまいます。生き物は倒れないように動作しますから、必ずこの姿勢から動き出します。

 このように、

(1)動作の途中であること
(2)重心が安定する位置からずれていること

 これらが組み合わさると、絵は「描かれた姿勢」では安定できず、必ず動くことになります。このような絵も、動きを実感させる絵と言えるでしょう。

 アニメーションを作る上での教科書は様々ありますが、サンプルとして作られているアニメーションの絵を見ても、この条件を満たしている絵で作られているかどうかとなると、実はそうではないのではないか、と思えるものも多くあります。動作の途中であることは間違いないのですが、その絵の前後の絵を見ても重力がきちんと働いているかどうかがわからなかったり、重心が安定した位置にあって動くことが容易でなかったりするなど、動きのある絵としては不十分と感じるものも多いです。このことには十分気をつけたいものです。
 「動きのない絵」であっても、絵の連続性さえあれば取りあえず「どんな動きをしているか」「どんなことをしているか」を伝えることはできます。絵の連続性が一つの意味を成す以上、それによって動作の意味は取りあえず作ることができるからです。しかし、それに動きの実感が伴うかどうかとなると、それらを構成している一つ一つの絵に「動きの実感」がない限り、「動いている」ことを十分に実感させることはできないでしょう。これはアニメにとって重大なことです。アニメは最初に示したとおり、「動きを用いて物語を作る」表現です。「絵の連続性を用いて物語を作る」のは、マンガや紙芝居ということになってしまいます。

 動きを作る表現をするのだということを自覚するのであれば、動きのない絵を並べて一つの物事の意味を作るのではなく、動きの実感そのものを作ることで表現を目指すべきでしょう。
 それが可能となるのは、一枚一枚の絵では完成でない、「不安定な」「動作の途中の」絵を「順序よく」並べることで、動きの実感を作り出すことが必要でしょう。

 そのような意味で、動きのある絵を連続させることではじめてアニメーションになる、ということを納得させてくれるよい本として、徳間書店「ロマンアルバム 電脳コイル ビジュアルコレクション」をおすすめします。
これは全く希有な本です。「普段なら産業廃棄物として捨てられる原画」の中から一部を抜粋して集めた本ですが、それでも収載された資料としては膨大です。その全てが「動いている絵」で構成されているという凄みがあります。もっとオソロシイことは、これだけの芸術性・資料性がある原画が、「普段は産業廃棄物として捨てられている」という事実です。産業廃棄物なんてとんでもない、宝の山です。今までどれだけの財産が捨てられてきたというのでしょう。それなりの権威のあるオークションで一話、一パート、一カットずつ組にして売りに出したらかなりの値が付くでしょうに。少なくとも財力があれば私はそうします。まあ、優れたアニメだということがわかっていれば、ですが……
 「電脳コイル」はアニメとして優れていることがわかっているから、と言えば確かにそうですが、それでなくても、これだけの価値のある原画が捨てられているというのはもったいないとしか言いようがないです。アニメ制作の教材として寄付していただくとかなんとかできないものでしょうか……

 基本動作のアニメを練習するのは大事ですが、それをする中でも、どの位置が「鍵」になるのかと言えば、「不安定な状態を身体がわざと作り出し、次の姿勢に移行しようとする姿勢」を取り出すことが大切です。それを把握するためにも、これだけのよい原画を見て、模倣することは、アニメを作る練習として非常に大事だと思う次第です。

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動きのある絵(1)効果

 この文章では、
「アニメはなぜ動いて見えるのか」
という問いに対して、
「そこに動きを意味する何かがあるからだ」
と、ある意味身も蓋もない考え方でできています。
 動きを見るための私たちの仕組み……眼とか、脳とかのメカニズムがどうなっているかはとにかくいったん脇に置いて、「そこに動きそのものがあるから」動いて見える、と考えるわけです。
 たとえアニメでなくても、それが実際に動いているのでなくても、「動きを意味する何か」がある表現であれば、それらはすべて動いて見える、ということでもあります。
 いくつか例を挙げていきましょう。

 ぱっと思いつくのは、もしかしたら、
Cocolog_oekaki_2009_05_20_00_40
 下手くそですが、こんなものかもしれません。飛んでいくボールを表そうとした絵です。
 真球であるボールは進行方向に伸び、楕円になっています。回転を表そうとして、球の模様ではなく、曲線が描かれています。そして、ボールの反対方向に何本もの線が描いてあります。
 これらは実際には起きていないことを、動きを表そうとしたために書き加えたり、ゆがませたり、変えたりした描き方です。
 このような方法は、「画面効果」を使っていると言っていいでしょう。どんな働きをするかとか、眼や脳がどうとらえているかはともかく、動いているのを描こうとしたことは伝わってくれるのではないでしょうか。
 このような「効果」を、実際に取り出すこともできます。カメラを使い、シャッタースピードをある程度遅く(1/60〜1/30秒くらい)設定して、飛んでいるボールや走っている人を撮ってみると、シャッターが開いている間に動いたところはその間にずれた分、広がってというか、伸びてというか、流れて撮影されます。そのため、独特の写真を撮ることができます。これは動いている物の動きを何とかして撮影するための一つのテクニックでもありますが、これが絵の描き方にも使われている、というわけです。
 この方法は、「動いていることを伝えようとして実際の形をゆがませた」ものです。形のゆがみや効果線などは、「動きそのものを意味する何か」なのかどうかというと、よくわかりません。実際にそこにあるものではありませんし、ただそこに楕円があったり、線が何本も描かれているだけでは、動いていると感じることもないでしょう。このように組み合わせられることで、動きを感じることができる、というものです。そのような意味では、この方法は「私たちの動きを感じる仕組みをうまく利用して、動きを見せる方法」なのかもしれません。意味を生じさせているのは、そこに描いてある線や形というより、それを見る私たちの仕組みや働きなのかもしれません。……もしかしたら、「錯覚」のようなものなのかもしれません。ただ、「錯覚」だったとしても、そこに何かがあることは間違いないでしょう。

 では、どのような形や絵が、「動きそのものがそこにある」ものなのでしょう。

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「動き」という「意味」を見る・描く

 動きを描こうとするときと、物語を何枚もの絵で描写するとき、私たちは似たようなことをしているということが、これまで書いてきたことから言えるでしょう。どちらも、何らかの「意味」を表現しようとしているのです。

 物語、お話、ストーリーというものは、ある程度の時間の中で起こる様々な出来事や変化を、時間を追って順に見せていく、読ませていくことによって、ある一連なりの意味、一つの物語を描き出します。だから、物語とはそれ自身に独特な「意味」を持っています。あるいは、この一つの「意味」こそ、物語の本体、物語そのものと言っていいでしょう。そして、物語を寄り詳しく見ていくと、そこには数枚の絵やいくつかの事柄のかたまりがあり、それが順序よく並んでいることがわかります。それらのかたまりも、それぞれ独特な「意味」を持っています。だから、一つの物語はそれ自身一つの独特な「意味」であると同時に、より小さな「意味」が並んでできているものでもあるのです。

 何枚もの絵を順序よく見ていくと、物語がわかるだけではなく、動きを感じることもできます。それこそがアニメです。しかし、そこには本当の「動き」があるのではありません。前に書いたとおり、それは「動き」そのものではなく、動きを感じさせる何かです。
 もしこれが、物語と同じように成り立っているものだとしたら、どうなるでしょう。
 これは、「動き」はそれぞれ一つの「意味」であるということを示しています。
 たとえばらばらの絵でも、順序よくうまいこと間を取って次々に見せれば、その連なりと順序から、ある一つの「意味」を私たちは感じることができます。その「意味」こそ、「動き」です。

 それぞれの動きが持っている「意味」は、途中がよくわからなくて切れ切れになっていても、連なり方さえわかれば何となく感じ取れることなのです。もちろん、うまく並べていくことや、意味を作るために重要な部分、動きの「肝」をとらえていることなどが必要です。それぞれの部分に「意味」がきちんと描かれていなければ、くみ上げたときに一つの「意味」になってくれないでしょう。しかし、そこをセンスと技で何とか工夫すると、途中がつながっていない絵の連なりであっても、ある「動き」が持っている「意味」を作り出すことができるのでしょう。

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アニメは動いているか

 アニメは「動き」を何らかの方法で作り出している、と言われます。でも、果たして本当に「動いて」いるのでしょうか。

 「動き」というのは、切れ切れになっているものではなく、なめらかに全て繋がっている一つの事柄です。しかし、アニメは「動きを表現する映像」を使っています。動きを表現する映像は、実は何枚もの切れ切れの絵を次々に順序通りに並べて見せているものです。つまり、一つにつながっていません。
 そう、前に書いたことと逆のことが言えるのです。断続的な部分部分を取り出してきた絵を順序通りに並べると、物語や意味ができる、動きもまた同様に一つの「意味」であり、切れ切れの絵を順序よく見せることで「動き」の「意味」を伝えることができる。
 ということは、動きを感じ取ることができるのであっても、実際にそれが「動いている」かといえばそうではない、ということでもあるわけです。
 
 止まっているものを順序通りにいくつも並べただけで、本当にそれが「動き」になるのでしょうか。何かが動くとき、それはアニメの絵のように切れ切れになっているでしょうか。そうではないですよね。動きは完全に時間的につながっている一つの何かです。切れ切れになっているはずもありません。

 前に書いたとおり、アニメで作られる動きはあくまでも「擬似的な動き」に過ぎません。動きそのものではないのです。動きを見せたければ、部隊の演劇や人形劇のように、実際に動いているものをそのまま見せるほかありません。私たちは普段、日常的にそうした「動き」を見たり聞いたりして感じ取っています。そういった動きは全て一連なりの何かであって、断続的な何かではありません。

 アニメが「よく動いている」ということは、なめらかであるとか本物らしく見えるなどの質の差はあれど、全て「動いて見える」というだけのことであって、動きそのものではないのです。

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絵と動き、時間、物語(2)

 前回の話では、一枚の絵の中に動きを描き込む方法について紹介しました。次に紹介するのは、複数枚の絵を使って動きや物語、意味を作る方法です。

 例としてここでは、ビアトリクス・ポター作「モペットちゃんのおはなし」(福音館書店)を取り上げます。ピーターラビットの絵本として知られるこの作品ですが、これ、文章を読まなくても絵を次々に見ていくだけでどんなことが起きているか何となくわかるようになっているのです。
 子ども向けに書かれた本なのだからそれでいいではないか。確かにそうです。でもここで重要なのは、物語の内容や意味は、言葉で語られるものだと決まっていないということです。
 この本は、絵があるストーリー・意味・筋に従って連続して描かれています。だから、絵を次々に見ていくだけで内容が伝わってくるのです。どこに意味が描き込まれているかといえば、絵の一枚一枚ではなく、何枚もの絵の連続性、コンティニュイティ(Continuity)あるいは順序(Serial Order)に埋め込まれているのです。
 このように、言葉無しで絵の連続性だけで物語を作る方法はほかにもあります。富岳三十六景や東海道五十三次のような連作も、場所を移動しながら何かを描くことで、一つの山や一つの道を描きます。安野光雅作「旅の絵本」(福音館書店)シリーズ(手元にあるのは最初のものとIIのみ)でも、文章がなく絵が並んでいるだけで意味を作ってあります。特に最初の「旅の絵本」では、旅人だけでなくいくつもの事柄が複数枚の絵に渡って描かれ、物語があることがわかります。
 漫画も、絵の連続性を使って物語を作る方法の一つと言えるでしょう。木尾士目「げんしけん」(講談社アフタヌーンKC)9巻収載第54話「いつでも夢を」には、セリフらしいセリフはありません。あるとしたら「!?」と「ははっ」だけです。それ以外は全て絵ですが、コマ割りと絵の連続性、順序を見ているだけで何がどうなったのか、どんなことを話しているのかといった意味内容は全て伝わってきます。正直な話、これ以外にもセリフ無しの漫画で意味内容が十分に伝わってくる作品というのはいくらもあると思いますが……
 子ども向けでいえば、紙芝居もそうですね。絵を替えるタイミングなどを講談師のごとく調節しながら、順序よく見せていく紙芝居屋の腕があってさらにストーリー、意味内容は強調され演出されていきます。

 パラパラ漫画のように、短い時間間隔で連続している絵を次々に提示する方法でも、動きを感じることができます。これは、アニメでも同じです。アニメは、絵や造形物、CGなどを短い時間間隔で連続的にその瞬間瞬間のかたちを提示して、動きを表現しています。しかし、このような方法で示されるのは、擬似的な動きだけではないということです。
 絵の連作や絵本の挿絵、漫画のコマなどは、それぞれ独自のタイミングを調節しながら絵を順序よく描き、並べてあります。それを描き手が想定したとおりの順序でタイミングよく見ていくと、そこにあるより大きな「動き」、ある時ある場面の「意味」や「物語」を感じることができます。その時間間隔は1秒1枚くらいでもいいし、それどころか、一枚に5秒かけても内容が伝わる、あるいはそれくらい一枚の絵をながめていないと意味がつかめないようなものになっていることもあります。大事なのはぞれが一連なりの絵だということです。

 実はパラパラ漫画も、こうした「意味」や「物語」を感じさせる方法の一つのやり方ではないかではないでしょうか。「動き」を感じ取れる、ということは、「動き」の性質や意味を感じ取っているということです。実際にそこに「動き」があるわけではないのに「動き」を感じることができるのは、そこに「動き」の意味内容があって、それを直接感じ取ることができるからではないでしょうか。

 視覚の原理として、現状の有力な説では時間をコマ割りのごとく刻んでそれを並べ、脳の中で再構成しているというのが「動き」を感じ取るメカニズムだといわれているはずです。
 でも、そうではなくて、「動き」も意味内容なのであれば、私たちは時間的に順序よく並んでいるかたちの連続性、コンティニュイティや順序をから、「動き」の意味内容を感じているのではないでしょうか。そしてこれこそがアニメを作る秘訣であり、アニメから「動き」と「物語」を感じろ津ことができる仕組みなのではないでしょうか。

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絵と動き、時間、物語(1)

 絵と動きについて考えてみます。

 絵は、特別な仕掛けを作らない限り動きません。絵がうねうねとかドタバタとか動くのがアニメですが、ただ一枚の絵ではそうならない。しかし、一枚の絵で「動き」を表現できないのでしょうか。

 結論から言えば、私が考えるところでは、一枚の絵に「動き」を感じさせる何かを盛り込むことはできます。本当には動いていなくても、何かの「動き」を感じさせる絵を描くことはできるのです。その秘訣は、「動き」でしかないことを描くことにあります。

 「動き」でしか表せないこととは、なんでしょう。

 例えば、風です。風は空気の流れです。空気は見えませんから、風を描くためには風によって動いている何かを描く必要があります。しかし、風によって動いている何かを一枚の絵に描こうとすると、風によって動いている最中のうちのたった一つの形を取りだしてくるしかありません。
 水の流れも同じです。総じて「流れ」は、動きでしかありません。ある瞬間だけを取り出しても、そこに「流れている何か」があるわけではありません。流れは何かが動いていてこそ、流れです。
 それでも、と思うでしょう。風を描いた絵はある。水の流れ……川などを描いた絵もある。流れが絵にならないことはない。でも、それは動いていないわけです。ではどうやって、私たちはそこから「流れている流れ」を感じることができるのでしょう。

 ここで出てくるのが、実際に動いていなくても、何らかのやり方で「動き」を感じさせることができる、という考え方です。絵に「動きを感じさせる何か」があるから、私たちはその絵を見て動いていると感じることができる、と、素直にそう考えるわけです。
 風のたとえを使えば、風によってなびいている草木を描いたり、風によってとばされている砂ぼこりを描くことによって、風を感じさせることができます。風によってたなびくその形、風によって舞い上がる何かのかたちは、それぞれ独特なものになります。風によってしかできないかたちを描くことで、風を感じさせることができるようになります。
 水が流れているときにも同じことが言えます。水は光を反射しますから、それ以外の方法によっても流れを見ることができます。流れができると、水底の形などによって独特の水面ができます。波打ったり、泡だったりします。こうしてできた水面が光を反射して、その光が目にたどり着くと、水面の独特の形を反映した光の様子が見えます。こうして、水の流れを水面のかたちを描くことによって感じさせることができるようになります。

 付け加えると、「歩き」や「走り」も、動きでしかないものの一つです。歩いている最中の絵を一枚だけ取り出しても、動いているかと待っているかわからないようなこともあります。走っている絵は、その姿勢で止まることができないので、動いていることがすぐにわかります。

 こういった、絵の中に動きを感じさせる何かを描いた例として、一つの絵本を取り上げます。ブックリストにある二木真希子作「小さなピスケのはじめてのたび」(ポプラ社)です。二木真希子氏は、スタジオジブリの作品で主に活躍するアニメーターです。植物をなびかせて風を作るとき、この人の植物の描写力と風のとらえ方が力を発揮していることが存分に味わえるでしょう。

 もう一つの「動き」を感じさせる方法は、何枚もの絵を並べることによって時間の流れや物語を見せるという方法です。これは次の記事で書くことにします。

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内容が動きを決める・動きが内容を左右する

 日本のアニメでは、多種多様な題材が扱われることがわかります。すると、要求される「演技」もまた多様になることはおわかりでしょうか。
 アニメでなく、ほかの表現で考えてみましょう。任侠やサスペンスを扱う作品には、ハードボイルドが含まれています。もちろんそうでないものもたくさんあります。しかし、ある独特の雰囲気を持ったものになることは間違いありません。そのため、小説にするにせよ、舞台演劇にするにせよ、実物の俳優を使った実写ドラマにするにせよ、それぞれのスタイルに独特な文法や雰囲気を持たせることになります。コメディからシリアスまで、その演出は様々ですが、共通した部分もあるでしょう。
 ホームドラマにしても同じです。サザエさんやちびまる子ちゃんがアニメになっているホームドラマの典型と言えますが、実写では「渡る世間は鬼ばかり」といったものもあります。それでいて、何か共通したものも持っていることもわかるかと思います。
 そういった、作品の内容……コンテンツは、演じる役者に独特な演技をすることを要求し、また、演出家にそれぞれの内容に特徴的な演出をすることを要求します。作品の雰囲気を生かすにせよ、壊して別の雰囲気にするにせよ、何らかの演出が要求されます。

 これと全く同じことがアニメにも言えます。いわゆるTVアニメのような、30分1話でストーリーが展開する作品にせよ、15秒のCMにせよ、内容によってそれぞれ独特な演出が要求されます。
 すると、それに従って演じ手……アニメの場合には「アニメーター」の描く絵やCG、あるいは粘土や紙で作った造形物……が「演じる」動きが決まってきます。
 
 アニメを「子ども向け」と決めつけた上で、それしか作っていないと、動きもまた「子ども向け」になり、子供をあやしているかのような雰囲気を持った、悪い意味では子供に媚びた動きになります。アニメーターでアニメーション監督の高坂希太郎氏によれば「でちゅまちゅアニメ」になるのだそうです(参照:佐々木正人編著「アート/表現する身体 アフォーダンスの現場」(東京大学出版会)P.175)。
 日本のアニメ作品は、内容が大人向けになったり、任侠や濡れ場まで含んだり、ハードボイルドになったり耽美系になったりしますから、それぞれにふさわしい「演じる動き」を作る必要に迫られるわけです。このため、動きも多様化せざるを得ません。
 このような状況があったため、日本のアニメの動きは子ども向けではなくなり、しかも多様になっていったのだと考えられます。それが、日本のアニメの優れた点、アピールの一つとなっていったのではないでしょうか。

 逆に、動きの「味」が作品の雰囲気を作っていくこともあります。いくら「子ども向け」に作ろうとしても、子供にわかりにくいというか、複雑で奥の深い、わかりづらい、(アニメはこういうのが苦手ですが)感情を隠したような動きを作ると、アニメそのものがどんどん大人っぽくなっていくこともあります。
 動きによって内容が左右されたと思われる作品の典型例を挙げると、宮崎駿監督作品「千と千尋の神隠し」がよいでしょう。前半と後半で、ヒロイン(主人公という意味ではヒーロー)の千尋の動きが明らかに変わってきます。それを「成長」ととらえることもできますし、「恋」ととらえることもできるのですが、監督自身が抑制的、あるいはヘタレた動きを嫌う傾向があったことも影響しているのではないか、ということは指摘できるのではないでしょうか。

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「アニメ」には何でも入れられる


 「アニメ」の話を先にするか、「動き」の話を先にするか、悩ましいところです。
 考える順序としてどちらが自然なのだろうか、と。
 何より知りたいと考えられるのは、「アニメとはどんなものか」「なぜアニメが文化芸術の中で急に重視されるようになったのか」ということでしょうか。日本のアニメは優れているといわれますが、いったいどこがどのように優れているのでしょう。アニメなんてものがなぜ分化・芸術なのでしょうか。

 日本のアニメにはいくつか特徴があるでしょう。これについては多くの方が色々な議論を展開し、それぞれがそれなりに説得力のある特徴を挙げていますが、ここでは私が考えている日本のアニメの特徴について述べさせていただきます。

 まず、日本のアニメは内容が多様です。世界中で「アニメは子供のもの」という共通の認識があり、日本でもそう思っている方が多いですが、実際には子ども向けのアニメは日本では一部です。多くは「アニメファンのため」に作られており、そのアニメファンの中心は子供ではなく、大人です。子ども向けは子ども向けなりの需要と供給がありますが、それもまた大人によって受け取られてもいます。
 時には、子ども向けのアニメに、とても小学生くらいの年齢ではわからないだろうと思えるような内容が含まれていることもあります。

 「アニメは子供のもの」という思い込みを遥かに逸脱して、どんな内容でも、どんな話題でも作品にしてしまう。それが日本のアニメの一つの特徴です。
 例えば。

 スポ根
 SF
 ロボットもの
 サザエさん・ちびまる子ちゃん

(小説が原作)行商人が主人公の、経済・金融・商業と旅の物語……「狼と香辛料
人間の文明的生活と自然、軍事と産業、被差別者(女性、ハンセン病)云々……「もののけ姫
存在論とITメディア……「serial experiments lain
(小説原作)お嬢様女子校の生活、心模様(同性愛も含む)……「マリア様がみてる
(同人誌原作)ファンタジックな少女たちの日常と心の話「灰羽連盟
任侠(マフィア)……「ガングレイヴ」「BLACK LAGOON」「TEXHNOLYZE(テクノライズ)
殺し屋たちの純愛・哀しみ……「Noir(ノワール)」「Phantom
源氏物語。濡れ場あり……「源氏Genji」
演劇的演出も取り入れた怪奇物……「モノノ怪
京極夏彦原作……「巷説百物語」「魍魎の匣
Nice boat.……「School Days」(ドロドロ男女関係・昼メロでもここまでひどくないかもしんない・主人公のあまりの所行によって惨劇が云々)

 後半がいかにも日本らしいアニメの一群です。これらのほとんどは現在深夜枠(午前0時以降)に放映されているものですが、この枠で放映されているアニメは非常に多いのです。
 また、お気づきとは思いますが、大人の鑑賞に堪える作品になるため、濡れ場や男女関係などを扱うためにエロが、任侠や殺し屋を扱うために暴力も含まれていきます。

 アニメは一つの表現方法に過ぎません。子ども向けというのは、動かしやすい絵を描くと子ども向けの単純な線になりがちであったことや、ディズニーなどの影響が大きいのではないでしょうか。決してそんなことはなく、どんな内容でも表現できるのです。単純な線で描かれる絵が内容に及ぼす影響もありますが、それすらも利用するしたたかさも持っています。

 いずれにしても、物語同様、あらゆる話題を扱うことができるのです。
 日本のアニメの特徴として、内容の多様さが挙げられるわけですが、実際のところは、アニメそのものは何でも入れられるのです。日本の作り手たちは、素直にそこに何でも入れてしまっただけなのでしょう。

 アニメが全て「子ども向け」であるはずがないのです。
 アニメだからといって子供が見ると決まっていません。
 子供が見てもつまらなくてやめてしまうような作品を、大人が楽しんでいることも大いにあるのです。
 全ての子供がディズニーや宮崎アニメに興味を示すとは決して言えないのと同じです。

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