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2004年9月の投稿

座右の銘というか・・

座右の銘というか、肝に銘じておくべきことというか。あるいは、好きな言葉というか。
遅ればせながら「トラックバック野郎」の記事を見て、テストしてみるのです。

Gibson J. J. 1979の本の、ある章のある項のタイトル。

"WHAT IS SEEN AT THIS MOMENT FROM THIS POSITION DOES NOT COMPRISE WHAT IS SEEN"

和訳:「今、この位置から見えているモノは、見られているもの全体を構成しているのではない」
または「今、ここから見えているものだけでは、見られるものは成り立っていない」

つまり、ものを見るとき、見る位置や方向を変えたり、見る時間を変えると、別の面があらわれるということ。そして、「見えるもの」つまり世界にあるものは、そうやって場所、時間を変えながら見なければならないということ。推測や想像は、そこにあるものではないということだ。
「マリみて」ファンには、「パラソルをさして」で真美さんが祐巳に言ったこと、というのがなじみやすいですね。

しかも。想像力や推測能力は、そうやって動き回ってじっくり見ることによって、観察力を養うことで、伸びていくものである。観察力をつけよう。

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瞳子ちゃんは愛らしいのですっ

「マリア様がみてる〜春〜公式サイト」第2期が終わりましたね。これで終わりにしてもよく、続きを作ることもできる、ということでしょうか。特集2時間、のように作るのなら、もっと余裕のある作品になるかもしれないし・・・しかし、「ミカヅキ」の例もあるし。・・・第3期を望む声も多いだろうなあ。

第13話(通算26話)について。
そつのない作りでしたね。脚本に関しては「何と大胆な省略だろう」というほどに端折ってある。絵コンテは「そつがない」。・・でも結局瞳子ちゃんの魅力は十分に出ないまま。原作のエピソードで与えられた「上級生・祐巳さまに翻弄される後輩」のようなロールを、さすがにあの時間の短さの中では十分に発揮できなかったと言うことなのかしら。ちょっと悔しいですね。今回の彼女はどこまでも「添え物」と言うことで。そこまで力を入れようとすると、尺が足りないでしょうね。アニメだけ見ているひとでは彼女のファンになるひとは少ないかも。悔しいなあ。
とこちゃんは気配り屋で、慎重派で、おそらく蓉子様以上のお節介焼きで、いたずら好きで。レイニーの「祐巳さま」とか、可南子ちゃんとか、いじけているひとを見ると直情的になって過激な、迷惑なお節介を焼き始めてしまう。そんなところは十分には見えてこなかったですよね・・

今回力が入っていたのは、特に柏木氏と蓉子様でしょうね。「彩子」さんと「おばあさま」にも力は入っていましたが、それは「祐巳と祥子」を際だたせるため、のようだったと思います。柏木氏が非常に真剣な表情だったのがヒットです。あのシリアスな状況においてさえ、彼は彼を演じることを忘れず、かといって気遣いがないのではない。蓉子様は祐巳の前では「お姉さまのお姉さま」らしくしようとはしていても、ひとりになると力不足の情けなさや嫉妬の混じった表情を見せる。だいたいにおいて、アニメでそこまで表情を作ることができるようになったということ自体、技術は発展途上なのだなと思うのです。
柏木氏は、蓉子様と一緒にいても数に入らないようにしていることができる・・・「なにもしない」ができるように描かれていたかも。アニメでは、柏木氏と蓉子様は、祐巳と祥子を2人だけにすることを考えて、庭に残ったようになっていましたね。
・・・庭、そういえば、小説の話と全然違いました。

今回印象に残ったカット。生徒会室の散らかり具合。それだけで、仕事の量と、人手不足がわかるという。それを2人だけで処理していた志摩子さんと乃梨子ちゃんが「てんてこ舞い」だったり「途方に暮れて」いたりするのが目に浮かぶのです。
その2。祥子様のいた部屋。風に揺れるカーテンと、その部屋の薄暗さ。力無く倒れている祥子様は、「レイニーブルー」の回で約束を反故にされた祐巳とほとんど同じ。

何故祥子はあそこまでひとりで背負ってしまうのだろうか。それでも、自分の甘えに気づいた。何もしなくても祐巳には伝わっていると言うことが思いこみだと知った。何よりだと思うのだ。・・・小説ではそれ以降、感情や想いをぶつけ合う紅薔薇姉妹の姿が描かれるので、読んでおられない方是非ご一読を。

柏木氏の気遣いはたぶん、祥子には通じていない。祥子は気づいていない。だから、「柏木さんじゃだめなの」というのは、彼こそが身に染みて知っているのだろう。などと考えることもある。

瞳子ちゃんの魅力を知っていただくためにもっ。アニメを見た方は、ぜひ小説をお読みになってくださいまし。

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強い薬剤の使い方

薬というのは、十分な効果があるから、薬という。だから、いくら「作用が穏やか」「弱め」と言っても、強い反応を起こすことがある。
飲み薬は全身に回るから、副作用というか、目的以外のことも起こす。それがほとんどない、ある症状にだけバッチリ効く薬のことは、わたしは「奇跡の薬」と呼んでいる。本当にそんなもの、ほとんどないのだから。
薬によって起こる反応が、大変な結果をもたらすこともある。たまには死に至る。代表格は「皮膚粘膜眼症候群」。それから、子供に大人用の解熱鎮痛剤を飲ませたときまれに起こる「ライ症候群」。どちらも死亡率が極めて高い。
あと、全身の筋肉が壊れていく「横紋筋融解症」ってのもあるね。

そうそう。食べ物やハーブ、漢方薬、あれは穏やかな作用だとか言われるけど、そんなことないからね。漢方薬の中には、ほんの少しの量で致死量になるものもあるし。ハーブには毒性が強いものがあるし。セージなんかそうね。食べ物でも、例えばベータカロチン-ビタミンAなんかとりすぎるとガンになるし。

日本の厚生労働省で認可されている薬ですら、こうなのです。知識なしで強い薬を個人で輸入したりして買って、勝手に服用して、それで中毒ってどうにかなったって、それこそ「自己責任」よね。

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太陽は「左」から昇っているんじゃないの?

「小学生の4割「太陽が地球を回ってる」 国立天文台調査」というニュースがありました。

 そうは言うけどね。「地球」って言われて、イメージできる?

 ガッツ石松氏は、太陽が昇る方向を「右」だと言ったそうだけれど、小さい頃のわたしにとって、太陽は「左」から昇るものだった。だって、窓の外を見ると、朝は左の方が明るくて太陽があって、夕日は右の方にあって、それで暗くなって沈んでいくのだから。
 その後で、太陽は東から昇り、西に沈むという知識が身に付いた。すると困ったことになった。東と西を、つい逆にしてしまうのだ。北を正面にすると、左は西、右は東だ。しかし、わたしにとって太陽が昇ってくる方向は「左」だったから、つい、「左は東」と思うようになっちまった。
 その理由は簡単、窓が南向きだったせいだ。
 その癖は未だに直っていない。いちいち「左が東、じゃなくて、日本列島は北を上にして左曲がりで、そっちを西日本と言うから、左は西」と、修正しなきゃならない。めんどくさいったら。

 太陽は、ある場所から出てきて、昇っていって、ぐるりと回って反対側に降りていって沈む。地上のどこに行ってもね。だから、太陽が昇ってくる場所や方向、太陽が沈む場所や方向は特別だった。
 一カ所に留まっている人たちにとって、太陽は特定の場所(例えば何某山)から昇り、特定の場所(何某谷)に沈んでいた。そこは神聖な場所になったに違いない。太陽はそこで毎日生まれ、毎日死ぬ。そして、甦る。
 移動して暮らしている人たちにとって、太陽はどこに行っても必ず同じ方向から昇り、同じ方向に沈んでいく。昇る角度は少しずつ変わってもね。だから、その方向が特別になった。
 太陽が昇る方向には「東」という名が、沈む方向には「西」という名が付いた。

 月はもっと不思議だった。太陽がだいたい30回昇ったり沈んだりする間に、だんだん見えてきて、大きくなって、丸くなり、欠けていって、消えてしまう。しかもそれに合わせるかのように、身体の調子が、特に女性たちでは顕著に、周期的に変化していたかもしれない。だから、時間を計る1つのスケールに「月」ってのができた。

 ちょっと事情が違う場所がある。そこでは1年のうちのある時期、太陽も月も自分のまわりを右方向に1周しやがる。別の時期になると、太陽は昇りもしない。夏至の祭りや冬至の祭りは本当に切実だった。特に冬至。で、クリスマスになるのだ。早く太陽さん甦ってくれってね。
 その場所を、北半球では北極圏、南半球では南極圏という。でも、南極圏には南極大陸しかないと言ってよく、人が住んでいない。北半球では、北極圏でも平気で人が暮らしていた。前からね。そんな場所のその時期では、西も東もあったもんじゃない。太陽は、昇らないし、沈まないからね。

 私ら…陸上の動物にとって、「地球」はイメージの埒外でしょう。あるのは「固くて大きく広がっている地面」だからね。私らのまわりにある「大地」は。(こういうときのまわりを、「生態学的環境」と呼んでいる)そんなところで、太陽が地球を回っているのか、地球が太陽を回っているのかなんて言うこと、考えられる?「太陽も月も、ある場所(方向)から昇ってきて、どちらかに偏って自分のまわりを回っていき、ある場所(方向)に沈む」しか、生態学的環境にはないのだからね。

 でも、農業をやっている人たちは、ずっと空を見ていなければならなかった。特に、夜。なぜって、1年を通して、いつ種をまいて、いつ水をあげて、いつ収穫するかを知るには、空にある星を読まなければならなかったから。天気がどう変わるかを見るにも、どちらから雲が来て、どちらから風が吹くと、雨が降るとか、からからになるとか、嵐になるとか判断しなければならなかったし。それが星占い(西洋の黄道12星座を使うのも、東洋の星宿も)で、天文学の最初だったんだろうね。天気を読む方は、「風読み」とか、「気象台」とかの最初になったかもね。

 一方、海を渡る人たちや、陸を移動し続ける人たちも、空を見ていなければならなかった。どこに陸があるのか、どこにオアシスがあって、どこに街があって、自分たちがどこにいて、どこに向かっているのかを知るには、昼間は太陽がどこにあるかで時間と場所を調べなければならなかっただろうし、夜は星を見て方角と位置を確かめなければならなかったから。そうしているうちに、北極星が見つかったんだろうね。だって、ずーっと見ていても、どんなに時間が経っても、そこだけ動かないで、星がそのまわりを回っているのだもの。

 そうやって、空を見上げて、1年の動きを気にしている人たちにとって、太陽のまわりをこの地球が回っていると言うことはとても重要だし、当たり前のことになっていったのでしょう。そうでなければ、予測(占い)が正確にできないもの。それは、「1日」のスケールで「地上」ばかりに生きている子供たちにとっては、違うスケールの話なのだろ思う。何せ、「1年」のスケールで、「空を見上げる」ことで成り立つのだから。

 順番が違うんだ。「太陽はどっちから昇る?」って聞いたって、「東」って答えるのは、知識を持っていると言うだけかもしれない。「太陽が昇ってくる方向を、何て呼ぶ?」の方が、まだいいんじゃないかな。
 地球が太陽のまわりを回っている、ということを説明するのは、とても大変だよ。地球の上から見ただけじゃね。木星を望遠鏡で覗くとか、そういうことがないとね。

 視点を変えることを身につける。それがとても大事だと思う。

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ひとりとひとりとその周り/レイニーブルーの瞳子ちゃん

 ちょっと遅れ気味ですが、TV放映されている「マリア様がみてる」の「レイニーブルー」および「青い傘」から、原作を交えながらの随想です。

 瞳子ちゃんにとって、このエピソードが起こるまで、祐巳はどのように見えていたのかしら。もしかしたら、「あの祥子お姉様」の「妹」になったと言うことと、「祥子お姉様があんなに好きな祐巳様」という、何か、祐巳が聖様や蓉子様などに抱いていた、「あの人は超人」感が、少しでもあったのかなと思うのです。小説ではこの後「涼風さつさつ」で登場する、可南子ちゃん同様に。可南子ちゃんほどではないけれどね。
 実際その人柄に触れてみて、頼りない部分があることを知って、それでも「祥子様に関しては祐巳様がいれば大丈夫」ぐらいは思っていたように思うのです。それを、裏切られたように感じてしまったような、そんな気がするのです。原作の、小説の文章では、そのあたりはほとんど触れられず、その後の展開や行間から垣間見えるだけなのですが、アニメ版では、「祥子お姉様を私も支える」という気配りもあり、また、上級生であり祥子の妹である祐巳と、できる限り二人でいられる時間を作るとか、そんなように描かれていたと思うんですよね。瞳子ちゃんは、「祥子お姉さま」にも「祐巳さま」にもすごく気を遣っていて。
 祐巳は押しが弱くて、自分から祥子様のクラスまで行って会うなんてことほとんどしないせいで、瞳子が接近しているその背景まで考えを巡らす・・・瞳子ちゃんの行動に隠れている何かを想像する前にいじけてしまって、その後いろいろ起こったのかもしれない。そんな気がするのです。
 一番責められるべきはね、きっと、小笠原家の男共ですよ。だから、祥子も清子小母さまも、必要以上にいっぱいいっぱいになってしまって。少しでも支えようとしているのが柏木ギンナン王子だったり、瞳子ちゃんだったりするってどういうこと、とか。忙しいかもしれないけど、もう少し妻や娘をいたわれと言うのよ。

 それとは別にね、この「レイニーブルー」の巻のエピソードだけではなくて、「マリみて」全般に言えると思うのだけど、乃梨子ちゃんの「世界は二人だけで構成されているわけじゃないよ(レイニーブルー,Pp.33)」というのは、鍵になると思うのよね。祐巳は「人間関係は一対一が基本だから(パラソルをさして, Pp.52)」と言っているけれど、「わたしとあなた」だけでは人間関係って出来上がっていなくて、それを「まわり」が取り巻いているのよね。「わたしと、あなたと、そのまわり」。「まわり」にあるのは、別にほかの誰かがいるというだけではなくて、「どこで」とか、「天気」とか、いろいろなこと全部。

 世界は「わたしとあなた」だけでは、構成されていない。そういうことなのだと思います。
 「まわり」のことを、生態心理学では、「環境」と呼んでます。

長文失礼。

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携帯から(テスト)

携帯から書き込み出来るかどうか、試しに書いてみている。
果たしてどれほどこの機能を使うことがあるのか、わからないものではありますけれど。
何かあったとき、便利かもしれないですし。

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序文

 「ブログ」というものの噂を聞きつけてからというもの、HPも、そこの日記も持っているにもかかわらず、 トラックバックやコメントができる分、反応を見ることもできそうだと言うことから、「ブログなるものをやってみたい」「ブログの方がメリットがあるのでは」と思っていた。吉か凶か。丁か半か。
 博論執筆の追い込みが続き、一度書き上がるも初期段階でリテークされ、腐る気持ちと納得する気持ち、そして異様な疲れとともに日々を過ごしている。

 実はまだ仕事が残っている。主な身分は学生だが、副の身分は薬剤師であり、また、レポートや論文ではない文章も、ごくたまに書いているので、ごくたまに締め切りに追われる。それが、迫っているのである。

 その仕事が終わったら、今度は博論のリテークの日々であろう。
 「マリみて」のSSを書くという希望はいつ叶えられるのだろうか。
 いつかできたら、HPに載せるのである。

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