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2005年6月の投稿

マリみてのこと:瞳子ちゃんの一人称の使い方

 ご無沙汰しておりました。精神的に負担が大きいことが続き、こちらに気力を回していなかったことや、「ナムコXカプコン」などにはまっていたせいで、、しばらく書いておりませんでした。まあ、そうするとアクセス数に大きく影響が出まして…当然のことではありますが、これはいかんと思いまして。
 来月には「マリみて」の新刊も出るようですし(前号の「コバルト」に「新刊が7月に出る」ことだけは予告されていました)、まだ論文やら原稿の締め切りやらいくつかあるのですが、書けることは書いていきましょう。

 瞳子ちゃんが使っている、自分をさす言葉…一人称についてです。彼女は「私は」というときと、「瞳子は」というときがありますよね。これが、「どちらがより素直なのか」「どちらが演じているときなのか」など、彼女の人となりをうかがおうとするときの手がかりの一つになっています。実際には、文章を読んでみると、作者がこれを完全にコントロールできているのかというと多少疑問があったりすることもあるのですが、全体を通してみれば、一定の傾向はあるのではないか、と考えます。
 それは、「瞳子は」と言うときには相手との中途半端な距離を十分に測って、感情を隠しながら話しているときであり、「私は」と言っているときは、むしろ感情が表に出ていたり、あるいは、相手との距離が遠いときなのではないか、ということです。距離が遠いとき、というのは、例えば三奈子様と会話をするであるとか、弓子さんとの会話であるとか、等です。相手との距離を測りかね、宙ぶらりんになっているときはむしろ「瞳子は」という言葉遣いになり、甘えた感じが出てくるようにも感じられます。クラスメイトや薔薇の館で、よく「瞳子は」と言っているのは、その場所に自分が居着いていいものなのかどうか、を考えているのではないか、そんな気がするのです。

 すみません、今回はこのあたりで。

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