« 「大きな扉 小さな鍵」直前の瞳子ちゃん考察 | トップページ | そのロザリオは誰のもの? »

白地図に水玉模様描いたのは誰?

今日お仕事中のこと。
ふと書類のメモ書きを見て、たまげました。

「去勢」(かいせつ:ピーーーをきること)

なぬ!?

よくよく見れば、字が汚かっただけでした。実はこうだったんです。

「去痰」(かいせつ:たんをきるってこと)

……

○TL

考察できな〜いなどと某所で言ったのが嘘のような長文になってしまいました。しかもまだ続きます。
加えて邪推と解釈爆発です。いつものことか。そんなところですがどうぞ。

 瞳子ちゃんについて少しだけ書いてみたところ、今まで気になっていた部分がまとまって形になってきました。まず、目についていたことを箇条書きにて挙げてみます。

1)「子羊たちの休暇」
 P.195 瞳子ちゃんが「納涼会」でバイオリンを弾いたこと
2)「ジョアナ」
3)「未来の白地図」
 3.1 Pp.38-39 食事中、料理の作り方、材料を訊きながら褒める
 3.2 P.40 『祐巳さまは、お家では何でもお話になるんですね』
 3.3 P.42 瞳子ちゃんが「お客さまとしては完璧なおもてされをしてのけた」こと
 3.4 P.168 『そのロザリオは受け取れません。戻してください』(※2)

 1、3.1、3.3について気づくことができたのは、森薫「エマ」のおかげかもしれません。「晩餐会」などについて多少は興味があったり、気にしたりできたためです。
 1は「社交における教養」、3.1、3.3は「テーブルマナー」に関係することだと思います。たしか、「料理について知識を交えつつ褒める、味わう」とか、「程良く笑い、程良く話し、気持ちよく食べきる(これについては様々な様式があると思います。残すのが礼儀であるという地域もあるので)」というのは、テーブルマナーに含まれることではなかったでしょうか。少なくとも、食事を楽しいものにすること、作ったものをほどよく的確に褒めることは、招待者(作る側、もてなす側)にとっては喜ばしいことに違いないわけです。気になったのはそれが「完璧なおもてなされ」と、強調されるほどだったということです。祐巳にとってもそれは印象的だった……ということになるのではないかと。
 もちろん、読者にも印象づけることにもなりますが、「マリみて」において書いてあるということは、一人称において視点に選ばれた登場人物にとって印象に残ったということも意味する、ということです。

 このあたりから考察がちょっと跳躍するようになります……
 
 テーブルマナーは「食事を楽しむため、楽しみをじゃましないためのお約束」のようなもので、それを含めた「社交場の教養」というのは、自分の存在を美しく、また楽しませるように示すための「装い」の一つともいえましょう。それによって相手を喜ばす、というのは、野暮な言い方をすれば、気に入られるための手段でもありましょう。それが、「礼儀」を通り越して「様式」「格式」さらに「常識」にまでなっていく場面、場所があるわけです。そういう場所になると、「それなりの教養」すらも要求されるようになっていくことがある。よい例が、祥子や柏木にとっての「社交ダンス」です。それが極端な場合になれば「子羊」の「納涼会」のような様相まで呈してくるようになりましょう。(ただ、あれは「野暮」とか「成金」とも受け取られかねないでしょう。妙にセンスが「庶民」じみてます。)
 そういったことについて、瞳子ちゃんはどんな思いを抱いていたのだろうか。
 
 祥子は、それらを他人事のようにとらえたり、好きでやっているのではなく当然のこととしてやっていながら、幼稚園でのエピソードのように「特別扱い」されることに抵抗したりしています。
 柏木は、それらを身につけている一方で、パンダの着ぐるみを身につけて客寄せなんてことまでする、希有な奴になっています。祥子が「教養」に振り回されていたのに対して、優は「使いこなしている」ように見えます。
 
 マナーや教養について「装い」という見方をするなら、それが「身に付いているもの」であればまだしも、「無理して身につけている」「身に付いているふりをしている」ということになると、それは「取り繕い」ということになりますよね。また、自分自身とのずれを強く感じながらそう装い続けるということになれば、それは……そう、「演じる」ということともつながってくるのではないでしょうか。
 瞳子ちゃんは完璧な「お客さま」を演じることができる、というより、それこそが彼女の演技において、不本意にも、もっとも強く要求されてしまったことなのではないか。
 彼女は、自分の持つもっとも強力な武器であり、防御壁である「演技」を、「社交の場」で使い続けなければならなかったのではないか。否応なく使わなければならなかった、使いこなせるようにならねばならなかったことで、少なくとも矛盾を含んだ複雑なものになってしまったのではないか。
 そんなことを考えるようになりました。
 
 このことは先に挙げた3.3に影響します。前回のログで引用したとおり、瞳子ちゃんは選挙に出馬した折、そのことを母親には伏せて、「お姉さま方が当選するだろう」と話しています。もちろん、祐巳も学校で起きている全てのことを家族に相談したりしているわけではありませんけれど、何かあれば様子が変わってしまうわけで、家族はそれで何かがあったことだけは察することができる状態にはなっています。一方、瞳子ちゃんのお母さんは、瞳子ちゃんについて何かを隠しているということは感じていないような様子です。また、瞳子ちゃんと両親、あるいはどちらかがけんかして瞳子ちゃんが家を飛び出したとき、寝込んでしまうほどにショックを受けてしまったことから、ほとんど疑うこともなかったのではないかということを想像します。
 つまり、瞳子ちゃんはここでも「完璧に」「心配をかけないように」娘を演じている、という可能性もあるわけです。少なくとも、選挙についてはそれが言えるでしょう。自分が立候補したことすら伝えていないわけですから。
  
 こうなると、瞳子ちゃんにとっての「演じる」ことは、ずいぶん複雑な様相を呈することになり得ます。
 自称女優、演劇部に所属し、好きな役もあるし、能力もそれなりにある。それでいながら、普段の生活の中ですら演じつづけ、しかもその役柄は要求されたものであり、あるいは彼女が気を遣った結果であり、それと自分との間に強い違和感を感じているのではないか。そしてそのギャップは将来について想像するときにも、何か影を落としているのではないか……
 
 例えば、こういうことなのではないか……瞳子ちゃんの白地図のたとえは、あの「納涼会」での一件と関係していると。
 瞳子ちゃんは何らかの理由であのとき日本にとどまった。そして、いきさつはどうあれ、あの納涼会に出ることになってしまった。そして、そこで起こることも何となく想像ができていたか、あるいは事前に知っていた。だから、祐巳に「帰れ」と忠告し、一方で自分は「サボる」ことなく出席した。そして、どう考えても稚拙でしかないと感じているかもしれない、バイオリンを披露する。それがそこでの「様式」……要求された「装い」であるから。
 これが「白地図に何かを書き込む」ということと、「理想型がすでにある」こと、そして「思い通りに行かないこと」などにつながる。
 ここで、祐巳は嵌められたようでいながら、全く異なるものの見方から……装うのではなく、心からのお祝いとして歌を贈り、主賓の心をつかんでしまった。
 もしかしたらこのとき、瞳子ちゃんは、「装う」ことに一所懸命で肝心なことを見逃してしまっていた自分を恥じ、同時に稚拙であっても装うことなしにでも周りを言祝ぐ能力を持った祐巳に嫉妬とあこがれなど、好意と複雑な思いを抱くようになったのではないか……
 つまり、白地図にピンクの花柄や白黒の水玉模様を描き込んでかわいらしくすてきに仕上げてしまった、先生にはしかられても誰かには喜ばれ、自分も満足できるようなことをやって見せてしまったのは、瞳子ちゃんにとっては祐巳だったのではないか、ということです。
 
 「役を演じる」ことが「周りに合わせるため」でも「装う」ためでもない、誰かになってドラマを作るということになる演劇に充実感を感じることもあるのではないか、ということまで考えています。
 
 今の段階で、仮想を入れながら解釈してみたものですから、何もほとんどわかっていないところで、散らばっているかけらを集めて類推されたことですし、予想している部分に関しては外れている可能性が大きいでしょう。ただ、こんなこともあった、こんな可能性もあるというだけですので……

さて、3.4がまだ残ってますね……そう、まだ続くんです……題名は変わりますけど……

|

« 「大きな扉 小さな鍵」直前の瞳子ちゃん考察 | トップページ | そのロザリオは誰のもの? »

キャラ別:瞳子ちゃん」カテゴリの記事

キャラ別:柏木優」カテゴリの記事

キャラ別:祐巳」カテゴリの記事

キャラ別:祥子」カテゴリの記事

マリア様がみてる」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/54433/46669771

この記事へのトラックバック一覧です: 白地図に水玉模様描いたのは誰?:

« 「大きな扉 小さな鍵」直前の瞳子ちゃん考察 | トップページ | そのロザリオは誰のもの? »