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杉浦日向子原作・原恵一監督アニメ映画「百日紅」感想。

公開初日5月9日、アニメ映画「百日紅」を見に行きました。

そうです。これは「映画」ではなく、「アニメ映画」です。アニメでしかできない表現を、江戸時代の浮世絵と合わせようとして、まあ、少し違和感はあるのだけれど、それを目指しました、それでいくつかのことが出来ました、そしてそれは今の日本の現実とつながっています……という、アニメの作り手の思いが伝わってきます。
「面白かった?つまらなかった?」 さあ……?
「感動した?」 「絵と動きにね。」
「じゃあどんな感想を持ったの?」 「お猶が可愛かった。」
そう、お猶が可愛く描かれていたのだ。これが原作と大きく異なる点であり、難しい感想を求められる点の一つだと思う。
「それだけ?」
いや、それだけではない。杉浦日向子の原作を読んでいると、作り手の思いがさらに伝わってくる。「あの作品を、事もあろうにアニメにするとは、自分たちは無謀な挑戦をしたものだ。しかし、作りたい。あの作品に劣らない作品を作りたい」という感じかな。 すると、主な感想はこうなる。
「へぇー」「へぇー」「へぇー」
後で思い起こしてみると、「勉強をした!」という感想が一番自分の思いに近いのだ。

そして、「あともう一度は見なおしてみなければ、なにか書くのは難しい」と思った。しかし新鮮なうちに書いておかなければならないこともあると思うので、とりあえず書いてみることにした。

ネタバレOKな方は続きをどうぞ。

そう、この作品はまず「江戸時代の浮世絵師達」を魅力的に描き出した原作にできるだけ忠実に、そしてアニメとしてのエンターテイメント性をどう担保するか、という2つの事柄に真正面から取り組んだものだろう。
だから、絵でなければならないのだ。北斎の「神奈川沖浪裏」を取り込んだのは、まあ、エンターテイメントとしてはそこまでやって文句はない。
浮世絵師というのは江戸時代当時は「エロ絵描き(枕絵)」でもあって、芸術家気取りなどなく、とにかく絵で糊口をしのぐ生活を送っていた、ということなのだろう。彼らは仕事をする毎日を送っている。ゴミは自分の作品に至るまでの「自分のもの」。芸術家が捨てる廃棄物ではなく、自分が書きたい絵、というか注文されている絵に到達するための排泄物、つまり「自分たちの仕事の肥やし」、なのだろう。排泄物=廃棄物、ではない。排泄物=次の仕事の栄養ドリンクなのだ。原作を読んでいると、アニメで絵を丸めて後ろの方にポイと投げ捨てるお栄の姿を見ていると、そう思える。彼らの描く絵は商品・作品であって、芸術品ではない。それに芸術性を見出したのは遠く西欧の画家たちだ。私たちはその感覚を逆輸入しただけだ。

この作品で感心するのは、まず、当たり前なのだが、主人公たちの着ている服装が全部和服なのだ。また、それぞれの商売によって様々な服が用意されている。和服を着ている人間を歩かせようとすると、問題になるのは「当時の裾捌き」がどのようなものであったかわかっていなければならない。足を描いていない、腕も振っていない絵であれば、そのあたりを歩くスピードと歩幅を考えつつ背景を動かしていけばいい。しかし、全身を描くとなると、歩くのも走るのもただでは済まない。これを再現するのは本当に大変だっただろうと思う。
そういう意味で、この作品はたくさん和服が描かれていて、和服がはだけるときはどうなるか、とか、下駄を履いている人と草履を履いているひとの違いはどうだとか、徹底的に和装で貫いた作品であり、それはまず評価されなければならないだろう。

気になったのは、CGで描かれた背景・美術の橋や家並み、長屋と、浮世絵調でまとめられた登場人物たちの違いがちょっとくっきりしてしまうところだ。たしかに、あの緻密な、杉浦原作にあったような細かな描写をした背景と、登場人物の描き方の魅力を前面に押し出そうとしたキャラクターデザインと、それに拘束される動きを「同じ調子」で描こうとしたら、それは大変すぎる。
背景の動きで人物が移動する様を描こうとすると、やはりCGのほうがクオリティも高いし、利便性もある。しかし、しっかりとした骨組みでパースを作ってからその上に絵をのせていくと、浮世絵町で描かれた部分の、透視法でない、パースがない平面的な絵を合わせると、その違いが見る人によっては浮き上がって見えてしまうのではなかろうか。少なくとも私は、その点が気になった。だからこそ、この作品の作り手たちは、お猶を心配してお栄が疾走する場面において、従来どおりのセル画調の背景動画を使って、道の見え方が変わっていく様子を描いたのだろう。

内容については、実に淡々とお栄、鉄蔵らの浮世絵師の気取らない日常をストーリーの骨格としておいてあり、そこに映画ならではの魅力として、お猶の様子を原作に描かれていない部分まで補って、少しドラマ性を持たせてある、という感じだった。かと言って、お猶の様子がアニメ映画の邪魔をするほどに派手に、または「悲しいだろ!?おい、こんな可愛い子が子供の年で死んでしまうなんて可愛そうだろ!?」という感動の押し付けは行われていない。
むしろその当時の、子どもの死に目に会うことの「普通さ・日常さ」や、生まれつき目が見えないものでも糊口をしのぐためには手に職をつけるなどの江戸時代後半の風俗として描かれ、これも「いつものことさ」というサバサバした印象を与えてくれる。感動の押し付けでとにかく目を引いてしまえという姿勢はなく、その分丁寧な生活描写が浮き上がってくる、という作品だろう。強いて言えば、食べるシーンがもっとあればよかったかなと思う。

動きで感心させられてしまったのは、先にも書いたが、とにかく「和服を着ている人物の身体の動きと和服の見え方」が丁寧に描いてあったことだ。これは私たちの普段の性質ではあまり見られなくなった光景であり、そこには何がしかの技術や観察が強く働いているように思えて仕方ない。
そして、「地味派手な表情の付け方」ができている。作り手の技量が高くなければ、表情はどんどん大げさになっていってしまうが、表情をたくさん描いて、手がそれを憶えているような作画者がそれを担当しているのだとすれば、それはこのアニメ映画にはうってつけだっただろう。

今日はここまで。また何かあったら記事にしてみることにする。

そのためにももう一度は少なくとも見ておかねばな……

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