性差についての雑論

性差というものは、厳然として存在する。身体の構造の違い、臓器の違い、臓器の違いに由来するホルモン、恒常性の違い。おそらく「月経を典型的身体的男性は1回も経験しない」ということは大きな差を生んでいるだろう。だから、典型的身体的男性には「月経前症候群」が無い。これが身体的・社会的な大問題を引き起こす。
たとえば、「生理」「生理不順」が話題として扱われているマンガや小説(アニメ化されているもの含め)は、私が出会ったものとしては「海がきこえる」「神戸在住」くらいしかない。その他には、確か「水色時代」がこれを扱っていたか。
また、様々な疾患の罹患率をみても、そこには性別の差はしっかりと現れてしまう。全身性エリテマトーデスやリウマチ、慢性甲状腺炎(橋本病)などの自己免疫疾患は、どうしても「女性」に多い。摂食障害もまた然り。その一方で、男性にも乳がん患者がいることはあまり知られていないだろう。
「出産」が、典型的身体的女性にしかできない、ということも、社会的な問題を引き起こす。しかも、日本では出産時のトラブルで死亡する新生児や母体が極端に少ないせいか、出産という一大イベントが生死を賭けたものだということに思いを馳せることができる人は極めて少ない。だから訴訟沙汰になりやすい。
「完全な人工子宮」の発明・成功は、それゆえに社会に大きなインパクトを与えるだろう。こんなことを扱っているのは、清水玲子くらいか?私の知識はあまりにも貧弱で、これくらいしか出て来ない。
しかし、遺伝子の違いが男性、女性を決定しているのかといえば、それは全く違う。典型的身体的男性は多くがXY型だが、これでもちょっとの「手違い」で女性の身体構造になりうる。その逆もまた然り。男女の身体的な違いがどうやって生じるのか、という点については、未だに謎だらけである。性分化疾患というのは、それだけ複雑怪奇なのだ。
さらに言えば、同性に性的興奮を覚えるということは実は稀なことでは全く無いし、どちらの性を愛するかは性的嗜好、つまり好みの問題であって、障害とは見なされない。まぁ、この点に関してはDSMの古い方、DSM-IV-TRでの記述であり、最新のDSM-Vではどうなっているのか確認していない。
問題を最もややこしくしているのは、性という身体性の問題が社会化するときに起こる様々なことなどなどの問題だと言えるだろう。「家族」「家族制度の崩壊」と言うと、典型的古典的家族ばかりが思い浮かんでしまうヒトが多いのも、そのためだろう。

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尊敬、信頼と愛情

ご無沙汰しておりました。

非定型うつ病というのがあるのだそうで。先日本当は怖い家庭の医学で初めて知りました。DSM-IV-TRに掲載されたのが1994年というのだから、遅きに失した感じはありますが、なるほどと思いました。

英語では何というのかな〜とネットをさまよっていたら、ようやく見つけました。
Atypical Depressionです。「非定型」というより「非典型」の方がいいんじゃ?

「大うつ病」の訳も変。もとはMajor Depression。「大リーグ」じゃあるまいし、そのまま使うなっての。重症軽症の区別なく、典型なら多数派で「メジャー」なはずで、別に重症って意味があるのじゃないから。
「多数派の」とか「主な」という意味だから……Atypicalに対してTypicalなものだから、「定型」というか、或いは「典型」と言うべきではないかな?
「気分変調症」も。Dysthymic DisorderとかDysthymiaとか言うらしいので、「持続性軽度抑うつ障害」とか。

意味のわかる、意味のある訳語を使ってほしい。直訳したって意味があるわけではないし。

さて今回は「シャーリー」「エマ」との領域交差になりますな。

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瞳子母の病;習慣性流産・不育症

習慣性流産・不育症とくくられる病がある。
胎内で胎児が十分に発育できないまま死産する(「流産」も死産の一種)ことを繰り返す(およびその可能性を強く疑うことができる)場合を指す。妊娠中期での何らかの原因による死産を経験した場合は、1回であっても検査するべきだ、とのこと。原因は多様である。(参照)

現在では、それぞれの原疾患・原因がわかれば、それぞれに対する効果的な治療法がある場合もある。例えば血栓ができやすいという場合、血栓を予防する(副作用をほとんど気にせずに使える)ことで、死産などを防ぎ出産できるまで胎児を胎内にとどめ十分に発育させることができるようだ。

何故この話か……

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不都合なデータ

報道されない「不都合なデータ」がある。
別に隠されているわけではない。
ただ、文科省は伝えなかった。
これを知ったのは朝日新聞2007年3月26日朝刊11面の本田由紀氏のコラム「いま 若い人たちへ」である。これで引き合いに出されなければ私も知ることはなかっただろう。
このデータが漠然と感じている何かを裏付ける。

UNICEF(国際連合児童基金)のイノチェンティ研究所の「
先進国の子どもたちに関するレポート(An overview of child well-being in rich countries)」
ここにあるPDF。
掲載されたデータの一つ(Table 6.3b)。

これが引用したデータはOECD(経済協力開発機構)下のPISAの2003年のもの

PISAというのは、Programme for International Student Assessmentの略だ。
PISA2003のデータベースのトップにあるとおり、この調査は学習到達度にのみ焦点を当てたものではない。しかし、文科省はこれを「生徒の学習到達度調査」として、学業の成績以外のデータをHPにすら公表していない。

ここで隠されたデータで特徴的なものをいくつか。これは、特定の質問に対し、1, Strongly Agree(全く、強くそう思う) 2, Agree(そう思う) 3, Disagree(そうは思わない) 4, Strongly Disagree(全く、強くそう思わない)の4段階で評価するというもの。対象は15才の学生。統計から推測した事柄に関しては検定をしていない……統計学に慣れておらず失礼。

ST27Q02; My school is a place where:I make friends easily.(学校は友人が簡単にできる場所である)
平均では 1:26.95, 2:60.35, 3:9.34, 4:1.64
日本では 1:22.42, 2:54.06, 3:19.37, 4:3.38

ここでは「3(そうは思わない)」の回答率。日本ではOECD各国平均の倍以上の数字になる。学校では友達ができない、と感じている割合が高いと言うことか。

ST27Q04; My school is a place where:I feel awkward and out of place.(学校とは、自分が気まずく感じる、場違いな場所である)
平均 1:2.14 2:7.48 3:43.87 4:42.91
日本 1:3.92 2:13.85 3:58.32 4:22.81

本田由紀氏は「2(そう思う)」の率が倍近いことをあげていたが、それよりも「4(全くそう感じない)」率が各国平均の半分、というところにも注目したい。……場違いな場所ではない、と言いきれないということか。

ST27Q05 My school is a place where:Other students seem to like me.(私の学校では、他の生徒は私のことを好きだと思っているように感じる)
平均 1:14.88 2:68.17 3:11.29 4:2.38
日本 1:5.39 2:68.15 3:27.29 4:3.54

注目すべきは1(強くそう思う)と3(そう思わない)。日本では1の回答は各国平均の3分の1程度、3の回答は倍以上になる。学校で好かれていないと感じる学生の割合が高いことになる。

ST27Q06 My school is a place where:I feel lonely.(私の学校は、自分が孤独を感じる場所である)
平均 1:2.28 2:5.61 3:33.89 4:54.88
日本 1:9.85 2:19.66 3:50.81 4:19.14

これはもう、すべてにおいて差が顕著だ。「強くそう思う」「そう思う」率は平均の4倍近く。実は2番目に多い国の率から見て3倍近いと報告されている。この数字は飛び抜けて高い。

日本でこのような統計を取ると、多くが「真ん中」(どちらともいえない)を選ぶ傾向が強いというバイアスがあるとはいえ、それを考慮しても、これらの差を無視することはできまい。

これに基づいて、UNICEFが先進国の子供の状態をまとめたのが、今年発行されたイノチェンティ研究所のレポート。
孤独感、場違い感(所在なさ)、人間関係を難しいと感じる割合など、突き詰めれば「自分などいらない」絶望感につながる、「死に至る病」の種を持つ子供(10代)の数(確率、割合)が飛び抜けて多いことを意味するのではないか……

アニメではすでに警告が何度もなされていた。エヴァンゲリオン然り、serial experiments lain然り、ゲド戦記然り……挙げればきりがない。

マリみてファンもお気づきだろう……佐藤聖である。藤堂志摩子である。蓉子さまに出会う前の小笠原祥子である。手術前の島津由乃である。細川可南子である。松平瞳子である。(それぞれの根拠は異なるものの)
彼女らはリリアン女学園で、薔薇の館で救われた。
これが「マリみて」の求心力について、最も大きな源の一つではなかろうか。

それらの声には全く耳を貸さず、「古き良き」やり方こそ至上と考え続けた世代の人類補完計画教育計画によってさらに事態は深刻化してきた可能性が高い。今の内閣での人類補完委員会教育再生云々だとかの様子を見れば、これからさらに悪化することも間違いなかろう。

「マリみて」内で、それぞれの登場人物の所在なさ。孤独感をいやし慰める方法は、一つとして同じものはなく、それでいてすべて同じ何かを共有しているだろう。
しかし、それはそう簡単にできないことである。リリアンだからこそ、「薔薇の館」だからこそ成し遂げられた「神業」であろう。

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胸が張り裂けて、あふれ出すものは

ごきげんやう。

……

東京で仏像展があるんですよ。
HPはこちら。
ポスターがね、すごかったんです。
乃梨ちゃん間違いなくへばりつきそうな。

さて。長文です。 前の記事に対するコメントを書いているうちに考えがまとまってきたことがありました。

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「最悪の根拠」発生の現場に関するリンク

2006年10月17日に発表になった、瞳子ちゃんの「最悪の根拠」と同様の痛ましい事例がありました。

マスコミ・雑誌等、専門家でないものによる記事のまとめは、前にも紹介したことのある「ある産婦人科医のひとりごとこの記事にまとまっています。

ここの管理人の方の記事の内容は極めて重要です。

また、うむうむネットこの記事に対するコメントもご参照ください。

さらに、ここの方の記事はより重要です。
新小児科医のつぶやきこの記事

意見・感想は拙速よりも巧遅を尊ぶのが定石です。
また、先達はあらまほしきこと、というより、先達に訊ねるを怠るべからず、です。

寺田寅彦・南方熊楠などのような「学者」がいなくなり、多くの「専門家」と呼ばれる者が「か」の前に馬が一頭いるんじゃないかと感じられることが多くなってしまった結果、多分野のことを同時多発的に素早く熟考できる者がいなくなってしまったと感じます。

これこそ最大の危機ではないかと思うのです。

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瞳子ちゃんの「最悪の根拠」の可能性

 バレエを見に行ってきました。演目が、日本で上演されることが珍しいものだと聞いて、観劇することになったのでした。なかなか面白かったです。

 最近のお仕事で、「むぅー、むぅー」と泣く男の子に出会ったり、お姉ちゃんを「ねーねー」と呼んでいる女の子に出会ったりしました。
 
 あやうく萌え転がりそうになりました。
 
 _| ̄|○
  
 さて今回も重い話になります。久しぶりに「小公女」との関連もあります。
 前のログへのRSさまのコメントとほぼ同じ内容になってしまいましたので、そちらを是非ご参照ください。補足しつつ展開させていこうと思います。

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それは稀なことではなく

 先日アップした考察「」において、間違いが見つかりました。詳しくはそちらの記事をご覧くださいませ。大変失礼いたしました。

 ここのところヒット数が多くなっていたのですが、あれ「アクセス数」をカウントしてまして、サイト内で移動するだけでカチカチ数えてしまう、ちょっと理不尽なカウンターだったので、設定を変えて、数を補正して、たぶんこれで「訪問者数」になるだろうなというものにしました。それでも累計で6000オーバーってかなりのものですね。ありがたいことでございます。
 レスも多少しやすくしました。スパム・荒らし対策のため公開が遅れますが、ご了承ください。また、web拍手もつけてみました。よかったら押してやってくださいませ。
 
 さて。瞳子ちゃんの根っこにある「何か」も気になりますが、それだけでなく、仕事柄どうしても気になることがあります。とりあえず今回はそちらの話になります。
 
 

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熟練度と汎用度

昨日の続きね。人間関係の運用能力というのは、ある意味では、「熟練度」と「汎用度」のようなものとしてとらえられると思うのだ。そういったものは、今、東京の青少年問題の一つで話題になっている、中学生の性の話云々が極特殊な一部でしかないように、とても一般的なものなのだと考えます。「不器用」でも、運用に関して「熟練」していて、その人なりの方法でその人の根本的な資本を生かすことができるのなら、それは熟練度が高いことを意味するし、それがどのような場合でも機能するのであれば、その方法は汎用性が高いと言うこともできる。もちろん、器用な人ならば、いくつもの運用方法を操ることができるだろうけれど、実はそれぞれの方法に熟練度の違いがあったりしてね。
何より重要なのは、この熟練度や汎用度は、単純に経験年数、回数に因るのではないということ。ガンガン鍛えればいいというものでもないし、だらだら努力せずに伸びていくものでもない。使えるように練り上げとぎすまし、自在に操ることができるように、何度も繰り返して練習しなければならない。それを「精緻化」という。関係が全くないとは言えないにせよ、回数や年数が根本的に重要なものにはならない。回数をいくら重ねても、年数が多くても、精緻にしようとする探索が行われていなければ、精緻化は決してされない。

大学時代、体育実技で筋トレやっていたのよね。そしたら、上半身がしばしば攣るようになってしまった。気功や指圧に詳しい医師の方に聞いてみたら、「筋トレして身体のバランスが崩れてる」と言われた。某野球選手が筋トレの結果、爺さんみたいな走り方になっちまったのと同じだって。私の筋肉は、力だけは出ても、使えないらしい。私の腹筋は、触ってみると始終緊張しっぱなしで、いざというとき力が入らない。腹も腰もうまく据わってくれない。筋肉だけ鍛えればいいってものじゃない。使える筋肉や使える身体をきちんと作って整えるには、他の鍛錬、トレーニングが必要だってことだ。

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バランスが悪い

東京都で「中学生のセックスを禁ずる」条例を作るかどうかの議論が起こっている。石原都知事はさすがに「太陽の季節」の石原慎太郎だけ会って、難色を示すどころか、「それはいかがなものか」と注文をつけていたような気がする。その中で、彼の言葉の中に「人間関係の運用といいますか、そういうのが下手になっているのでは」というのがあって、感心してしまった。表面的である、希薄であるというのはよく聞かれるのだけれど、「運用が下手」というのは初めて聞いたような気がする。
 自分というのは、間違いなく、ある意味では「資本」である。最後に残る資本である。それをどう運用するかは、その人それぞれの運用の戦略にあって、その中の一つに「人間関係」も含まれていると言ってもいいのではないか。「人間関係の運用が下手」な場合、その人本来が持っている人間関係における資本は十分に活用されず、多くの無駄を出しながら、資本がしぼんでいってしまう。自分の持っているものがやせ細り、活力そのもの失う。自分を生かすやり方を身につける‐自分がどこでどうすれば最も手持ちの資本を生かすことができるかを探るには、やはり、周囲にどれだけアンテナを張っているかにかかっているような気がする。
 記事の話がまだ出てこない。そう、まだお互いの価値をどのようにして測るのか、そして、どのようにして表現するのかについての運用方法‐表現方法を知らなかったり、相手の状態を察する能力‐観察力に基づく想像力‐がなければ、極めて深度の交流に、重大な障害(Disorder)が起きるのは、ある意味当然、ということも言えるのかもしれない。何事にも練習は必要で、その中のいわば最終戦に近い部分だけ何度もしていても、負け続けで成果は上がらないわけだ。毎回最初の一撃くらいでゲームオーバーじゃ、経験値は手に入らない。
 別のことで言えば、会話や、極わずかなスキンシップ(抱きしめる、手を握る)程度でも、その前の運用さえうまければ、かなり気持ちが良くなる。それは知っておいて損はないのではないかしら?

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