あけましておめでとうございます。平成29年(2017)1月2日(月)

あけましておめでとうございます。一日遅れですが……
ここのところ、「今年こそは本を書く」と言ってばかりで、書く書く詐欺になってしまってますので、今年はとりあえず執筆と編集の方とのすりあわせを入念にしていこうと思います。
体重が一時期に比べて10kg以上も増えてしまっているので(その頃が自分的にやせすぎだったのかもしれませんが)ちょっとやせたいです。
動きの研究も行っていきたいですね。

ところで、この写真見て下さい。昨日散歩途中で撮影したものです。
何が写っているかわかります?

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水面です。

「言の葉の庭」でも効果的に使われていた「水面」です。

しかし、わたしたちは「水面」を知覚できるのでしょうか?

水は透明です。無色であることはそれほど多くないのですが、光を通してしまうということは、光を包囲光に反映させる肌理および肌理に構造化された乱反射光がないんですね。なのになぜ、わたしたちはこれを「水の表面」だと知覚できるのでしょう?

ぱっと見では、ここまで静かな水面ですと、実際にこの風景を見ているのか、水面で反射した光の構造を見ているのか、わからないはずです。さらにここには、水底の落ち葉までくっきりと見えています。

水の見え方とは、こういうものです。どこからやってくる光が、わたしたちの包囲光となるのかを、十分に観察、検討しなければ、水を描くことはできないでしょう。

わずかな水面の揺らぎ(さざ波など)は、水の不変項を示すと同時に、包囲光配列を構造化します。たぶん、これが「水面」の知覚情報と、水のプロパティをわたしたちに伝えてくれるのでしょう。しかしそれは、風が吹いているか、水生の動物たちが動いて波を作るようなことがない限り、現れません。もちろん、「言の葉の庭」で使われた、雨の落ちたときの波紋も水面を描くときに大いに利用できます。

付け加えると、揺らいでいる風景は水があることをわたしたちに伝えてくれると同時に、水が動いていることを伝えてくれます。それはたとえ、写真であっても、水面に反射している風景の揺らぎ方によって伝えることができます。
アニメ「響け!ユーフォニアム」では、宇治川の様々な時間帯での描き方が秀逸でした。川の見た目の色と水面の揺らぎしか描かれていないのに、わたしたちはそこに「水が流れている」ことを知覚できてしまいます。光の反射の仕方は、「流れていない水」と「流れている水」を区別できるほどの性質を持っているのでしょう。

一枚画に動きの情報は入るのです。
一枚画は「静止」画ではないのです。

「海」と「池」、「沼」の水面を区別する時の性質の違いは、この「波立ち方」などにあるのでしょう。

「この世界の片隅に」で描かれる「瀬戸内の海」を特徴付けるのは、あの色だという話でしたが、そのような「海の色の地域差」もまた、一つのローカルな情報として機能していますね。

「この世界の片隅に」の「波のうさぎ」や、「言の葉の庭」、さらに「天使のたまご」を見ていると、そんなことを思います。

本当は、もう少し揺らいでいる水面を撮りたかったのですが、うまくいかず。揺らいでいる水面を撮影すると、まさに「天使のたまご」の序盤で頻出した水表現を撮れるのですが。

こんな小話を交えながら、本を書いていきたいです。

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熟練度と汎用度

昨日の続きね。人間関係の運用能力というのは、ある意味では、「熟練度」と「汎用度」のようなものとしてとらえられると思うのだ。そういったものは、今、東京の青少年問題の一つで話題になっている、中学生の性の話云々が極特殊な一部でしかないように、とても一般的なものなのだと考えます。「不器用」でも、運用に関して「熟練」していて、その人なりの方法でその人の根本的な資本を生かすことができるのなら、それは熟練度が高いことを意味するし、それがどのような場合でも機能するのであれば、その方法は汎用性が高いと言うこともできる。もちろん、器用な人ならば、いくつもの運用方法を操ることができるだろうけれど、実はそれぞれの方法に熟練度の違いがあったりしてね。
何より重要なのは、この熟練度や汎用度は、単純に経験年数、回数に因るのではないということ。ガンガン鍛えればいいというものでもないし、だらだら努力せずに伸びていくものでもない。使えるように練り上げとぎすまし、自在に操ることができるように、何度も繰り返して練習しなければならない。それを「精緻化」という。関係が全くないとは言えないにせよ、回数や年数が根本的に重要なものにはならない。回数をいくら重ねても、年数が多くても、精緻にしようとする探索が行われていなければ、精緻化は決してされない。

大学時代、体育実技で筋トレやっていたのよね。そしたら、上半身がしばしば攣るようになってしまった。気功や指圧に詳しい医師の方に聞いてみたら、「筋トレして身体のバランスが崩れてる」と言われた。某野球選手が筋トレの結果、爺さんみたいな走り方になっちまったのと同じだって。私の筋肉は、力だけは出ても、使えないらしい。私の腹筋は、触ってみると始終緊張しっぱなしで、いざというとき力が入らない。腹も腰もうまく据わってくれない。筋肉だけ鍛えればいいってものじゃない。使える筋肉や使える身体をきちんと作って整えるには、他の鍛錬、トレーニングが必要だってことだ。

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座右の銘というか・・

座右の銘というか、肝に銘じておくべきことというか。あるいは、好きな言葉というか。
遅ればせながら「トラックバック野郎」の記事を見て、テストしてみるのです。

Gibson J. J. 1979の本の、ある章のある項のタイトル。

"WHAT IS SEEN AT THIS MOMENT FROM THIS POSITION DOES NOT COMPRISE WHAT IS SEEN"

和訳:「今、この位置から見えているモノは、見られているもの全体を構成しているのではない」
または「今、ここから見えているものだけでは、見られるものは成り立っていない」

つまり、ものを見るとき、見る位置や方向を変えたり、見る時間を変えると、別の面があらわれるということ。そして、「見えるもの」つまり世界にあるものは、そうやって場所、時間を変えながら見なければならないということ。推測や想像は、そこにあるものではないということだ。
「マリみて」ファンには、「パラソルをさして」で真美さんが祐巳に言ったこと、というのがなじみやすいですね。

しかも。想像力や推測能力は、そうやって動き回ってじっくり見ることによって、観察力を養うことで、伸びていくものである。観察力をつけよう。

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太陽は「左」から昇っているんじゃないの?

「小学生の4割「太陽が地球を回ってる」 国立天文台調査」というニュースがありました。

 そうは言うけどね。「地球」って言われて、イメージできる?

 ガッツ石松氏は、太陽が昇る方向を「右」だと言ったそうだけれど、小さい頃のわたしにとって、太陽は「左」から昇るものだった。だって、窓の外を見ると、朝は左の方が明るくて太陽があって、夕日は右の方にあって、それで暗くなって沈んでいくのだから。
 その後で、太陽は東から昇り、西に沈むという知識が身に付いた。すると困ったことになった。東と西を、つい逆にしてしまうのだ。北を正面にすると、左は西、右は東だ。しかし、わたしにとって太陽が昇ってくる方向は「左」だったから、つい、「左は東」と思うようになっちまった。
 その理由は簡単、窓が南向きだったせいだ。
 その癖は未だに直っていない。いちいち「左が東、じゃなくて、日本列島は北を上にして左曲がりで、そっちを西日本と言うから、左は西」と、修正しなきゃならない。めんどくさいったら。

 太陽は、ある場所から出てきて、昇っていって、ぐるりと回って反対側に降りていって沈む。地上のどこに行ってもね。だから、太陽が昇ってくる場所や方向、太陽が沈む場所や方向は特別だった。
 一カ所に留まっている人たちにとって、太陽は特定の場所(例えば何某山)から昇り、特定の場所(何某谷)に沈んでいた。そこは神聖な場所になったに違いない。太陽はそこで毎日生まれ、毎日死ぬ。そして、甦る。
 移動して暮らしている人たちにとって、太陽はどこに行っても必ず同じ方向から昇り、同じ方向に沈んでいく。昇る角度は少しずつ変わってもね。だから、その方向が特別になった。
 太陽が昇る方向には「東」という名が、沈む方向には「西」という名が付いた。

 月はもっと不思議だった。太陽がだいたい30回昇ったり沈んだりする間に、だんだん見えてきて、大きくなって、丸くなり、欠けていって、消えてしまう。しかもそれに合わせるかのように、身体の調子が、特に女性たちでは顕著に、周期的に変化していたかもしれない。だから、時間を計る1つのスケールに「月」ってのができた。

 ちょっと事情が違う場所がある。そこでは1年のうちのある時期、太陽も月も自分のまわりを右方向に1周しやがる。別の時期になると、太陽は昇りもしない。夏至の祭りや冬至の祭りは本当に切実だった。特に冬至。で、クリスマスになるのだ。早く太陽さん甦ってくれってね。
 その場所を、北半球では北極圏、南半球では南極圏という。でも、南極圏には南極大陸しかないと言ってよく、人が住んでいない。北半球では、北極圏でも平気で人が暮らしていた。前からね。そんな場所のその時期では、西も東もあったもんじゃない。太陽は、昇らないし、沈まないからね。

 私ら…陸上の動物にとって、「地球」はイメージの埒外でしょう。あるのは「固くて大きく広がっている地面」だからね。私らのまわりにある「大地」は。(こういうときのまわりを、「生態学的環境」と呼んでいる)そんなところで、太陽が地球を回っているのか、地球が太陽を回っているのかなんて言うこと、考えられる?「太陽も月も、ある場所(方向)から昇ってきて、どちらかに偏って自分のまわりを回っていき、ある場所(方向)に沈む」しか、生態学的環境にはないのだからね。

 でも、農業をやっている人たちは、ずっと空を見ていなければならなかった。特に、夜。なぜって、1年を通して、いつ種をまいて、いつ水をあげて、いつ収穫するかを知るには、空にある星を読まなければならなかったから。天気がどう変わるかを見るにも、どちらから雲が来て、どちらから風が吹くと、雨が降るとか、からからになるとか、嵐になるとか判断しなければならなかったし。それが星占い(西洋の黄道12星座を使うのも、東洋の星宿も)で、天文学の最初だったんだろうね。天気を読む方は、「風読み」とか、「気象台」とかの最初になったかもね。

 一方、海を渡る人たちや、陸を移動し続ける人たちも、空を見ていなければならなかった。どこに陸があるのか、どこにオアシスがあって、どこに街があって、自分たちがどこにいて、どこに向かっているのかを知るには、昼間は太陽がどこにあるかで時間と場所を調べなければならなかっただろうし、夜は星を見て方角と位置を確かめなければならなかったから。そうしているうちに、北極星が見つかったんだろうね。だって、ずーっと見ていても、どんなに時間が経っても、そこだけ動かないで、星がそのまわりを回っているのだもの。

 そうやって、空を見上げて、1年の動きを気にしている人たちにとって、太陽のまわりをこの地球が回っていると言うことはとても重要だし、当たり前のことになっていったのでしょう。そうでなければ、予測(占い)が正確にできないもの。それは、「1日」のスケールで「地上」ばかりに生きている子供たちにとっては、違うスケールの話なのだろ思う。何せ、「1年」のスケールで、「空を見上げる」ことで成り立つのだから。

 順番が違うんだ。「太陽はどっちから昇る?」って聞いたって、「東」って答えるのは、知識を持っていると言うだけかもしれない。「太陽が昇ってくる方向を、何て呼ぶ?」の方が、まだいいんじゃないかな。
 地球が太陽のまわりを回っている、ということを説明するのは、とても大変だよ。地球の上から見ただけじゃね。木星を望遠鏡で覗くとか、そういうことがないとね。

 視点を変えることを身につける。それがとても大事だと思う。

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ひとりとひとりとその周り/レイニーブルーの瞳子ちゃん

 ちょっと遅れ気味ですが、TV放映されている「マリア様がみてる」の「レイニーブルー」および「青い傘」から、原作を交えながらの随想です。

 瞳子ちゃんにとって、このエピソードが起こるまで、祐巳はどのように見えていたのかしら。もしかしたら、「あの祥子お姉様」の「妹」になったと言うことと、「祥子お姉様があんなに好きな祐巳様」という、何か、祐巳が聖様や蓉子様などに抱いていた、「あの人は超人」感が、少しでもあったのかなと思うのです。小説ではこの後「涼風さつさつ」で登場する、可南子ちゃん同様に。可南子ちゃんほどではないけれどね。
 実際その人柄に触れてみて、頼りない部分があることを知って、それでも「祥子様に関しては祐巳様がいれば大丈夫」ぐらいは思っていたように思うのです。それを、裏切られたように感じてしまったような、そんな気がするのです。原作の、小説の文章では、そのあたりはほとんど触れられず、その後の展開や行間から垣間見えるだけなのですが、アニメ版では、「祥子お姉様を私も支える」という気配りもあり、また、上級生であり祥子の妹である祐巳と、できる限り二人でいられる時間を作るとか、そんなように描かれていたと思うんですよね。瞳子ちゃんは、「祥子お姉さま」にも「祐巳さま」にもすごく気を遣っていて。
 祐巳は押しが弱くて、自分から祥子様のクラスまで行って会うなんてことほとんどしないせいで、瞳子が接近しているその背景まで考えを巡らす・・・瞳子ちゃんの行動に隠れている何かを想像する前にいじけてしまって、その後いろいろ起こったのかもしれない。そんな気がするのです。
 一番責められるべきはね、きっと、小笠原家の男共ですよ。だから、祥子も清子小母さまも、必要以上にいっぱいいっぱいになってしまって。少しでも支えようとしているのが柏木ギンナン王子だったり、瞳子ちゃんだったりするってどういうこと、とか。忙しいかもしれないけど、もう少し妻や娘をいたわれと言うのよ。

 それとは別にね、この「レイニーブルー」の巻のエピソードだけではなくて、「マリみて」全般に言えると思うのだけど、乃梨子ちゃんの「世界は二人だけで構成されているわけじゃないよ(レイニーブルー,Pp.33)」というのは、鍵になると思うのよね。祐巳は「人間関係は一対一が基本だから(パラソルをさして, Pp.52)」と言っているけれど、「わたしとあなた」だけでは人間関係って出来上がっていなくて、それを「まわり」が取り巻いているのよね。「わたしと、あなたと、そのまわり」。「まわり」にあるのは、別にほかの誰かがいるというだけではなくて、「どこで」とか、「天気」とか、いろいろなこと全部。

 世界は「わたしとあなた」だけでは、構成されていない。そういうことなのだと思います。
 「まわり」のことを、生態心理学では、「環境」と呼んでます。

長文失礼。

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